謎が多い作品によく伏線と言う単語が使われているが、そもそも伏線は回収されなければ伏線とは言えない。
それは最早「謎」である。
そして、よく謎が放置されていると言われているディケイド。
ディケイドの正体や鳴滝の正体、リ・イマジネーションと呼ばれる世界…
細かい所を上げれば大ショッカーやらナマコやら、謎めいた物を上げればきりがない。
現在、ジオウのスピンオフの一環としてディケイドの完結編(と演者は思っている)作品が配信されている所だ。
意外と勘違いされているディケイドの謎の解説・考察をここで行っていきたい。
まず大前提として筆者は白倉P寄りの原理主義者なので、好意的に見ている話となっているので、
あぁ、こういう解釈も出来るんだな。くらいの説の一つとしてゆるく読んでほしい。
本ディケイドの正体は皆が疑問に思うもので、活発に話題にされているが、
夏の映画では大ショッカーの首領であるが、それらはテレビ本編やその後を見るとどうも設定がおかしく感じることだろう。
じゃあディケイドの正体と目的は何なのかだが、リ・イマジネーションの理解が必要となるが、
それを知るためにはまずディケイドの物語とは何だったのかを整理しないといけない。
以下はディケイドの大まかなあらすじだ。
TVの物語はまずディケイドの目的は紅渡から「世界の破滅を食い止めること」を言い渡される。
ディケイドは9つの世界を渡り歩き、様々なライダーと出会い、絆を深めるが…
世界の崩壊は大ショッカーの仕業であるため、大ショッカーを倒せば世界の崩壊が止まることが明らかになる。
終盤、世界の崩壊が進んで世界同士が融合し消滅。
大ショッカーを倒すが世界の崩壊は止まらなかった、大ショッカーは世界の崩壊を加速させていただけで、
実際はディケイドの存在が世界の崩壊を発生させていることが明らかになる。
そして最終話では恐らく原作のオリジナルライダー達がディケイドを倒そうとし…
と言った所でエンドロールとなる。
続く完結編では世界の破壊という真の目的を受け入れたディケイドが、全てのライダーを破壊し、再創造することによって、
オリジナルとリ・イマジネーションのライダーが共存出来る世界を作る。
だが、そこにはディケイドは居なかった、ディケイドには物語がないからだ。
しかし、その旅の中でディケイドは皆の記憶に残り、自分自身の物語を確立したので復活。
これからも旅を続けていくという終わる。
本題。
まず世界観がバラバラで独立している平成ライダーの世界。
それを一つにするだけでなく、更には平成ライダーという「原作の世界には存在しない概念」を押し出しているディケイドはメタ作品であることがわかる。
ではリ・イマジネーションとは何なのかというと「視聴者の朧げな記憶から生まれた写し鏡の世界」である。
視聴者が昔見た「あぁ~なんかクウガって刑事と一緒に戦ってたよなー」「アギトって3人のライダー居て一人ロボット居たよなー」「龍騎って殺し合ってたよなー」「剣ってトランプだったよなー」
と言った、視聴者達の曖昧な記憶が生んだ虚構の世界の一つ。
電王に関してはインパクトが強く比較的近年の作品だったので、視聴者の記憶に色濃く残っているのでオリジナルが登場したのだろう。
メタ的には電王を推し出した映画をやりたいという事情もあったのだろうが、こういう解釈も出来る。
その割にキバは渡が出てるのにリ・イマジネーションの世界があるって?辻褄合わせで言ってる考察だから目瞑ってください。
このリ・イマジネーションの世界があるとどうなるか。
朧げな記憶の世界がオリジナルの世界を上書きしてしまう。
これが紅渡が恐れていた世界の崩壊であり消滅である。
作品世界において忘れられることは死と同じ、だからライダーを殺す為のディケイドという存在が生み出された。
しかし、ディケイドはTV本編にて殺すどころか仲良くなってしまった、そうすると曖昧な記憶によって自分達が消されてしまうと恐れるオリジナルライダー達。
最終回でボコボコにされる理由がこれである。
続く完結編ではディケイドが己を運命を受け入れ、本来の使命通りにライダーを殺していく。
世界の消滅は食い止められる。
ディケイドはライダー達を殺した代償と、ライダーを殺す為だけの役目を果たした結果死ぬことを望む。
その後、仲間の思い出が記憶となり復活するが、これだけでは復活する理論のフックが弱すぎるのだが、
ディケイドという作品は「平成ライダー」という視聴者しか知り得ない概念単語が劇中に登場している。
視聴者の存在が欠かせないのがディケイドだ。
作中でも言及されたが、ディケイドには物語はなく、過去ライダーの記憶を視聴者に呼び起こす為だけの存在だ。
実際、ディケイドのおかげで過去のライダーを見る人も増えたり、離れたファンが戻ったり、新規のファンも獲得した。
全てのライダーを殺し、リセットしたことでオリジナルライダーの世界は脅かされることはなく守られた。
我々視聴者はディケイドの旅を見届け、過去のライダーをピックアップするためだけに生まれたディケイドに思い入れてしまう。
それはTV最終回のもやしとおじいちゃんの「俺達の旅は無駄だったのか?」「どんな旅にも無駄はないよ、どんな人生にも無駄がないようにね」という会話からもそれが感じられる。
過去のライダーを復活させる為だけのキャラクターではなく、「仮面ライダーディケイド」という一つの作品として認識する。
その瞬間、「仮面ライダーディケイド」という作品は個を獲得し、
その結果、作品世界の中で復活を遂げる。
「仮面ライダーディケイド」が進んできた旅の道で出会ってきたリ・イマジネーションのライダー達の記憶も刻まれているので一緒に復活した。
オリジナルのライダーとリ・イマジネーションのライダーの存在
本来は視聴者の朧げな記憶から生まれた不完全でオリジナルを脅かす存在してはいけない、リ・イマジネーションのライダー達と
今まで存在したオリジナルのライダー達の共存という、本来のディケイドの役割では行えなかった奇跡を起こすことが出来た。
…物語が与えられなかった、ただの空虚な「役割」でしかなかった存在が、
それまでの歩みが視聴者との時間と記憶により、一つの存在に昇華され、
「仮面ライダーディケイド」としての物語と「役割」を確立した。
なんと美しい結末だろう。
当時、劇場で完結編を見た時は首をかしげてW編だけでいいじゃんなんて言ったものだが、
年数を重ねてディケイドのことを考察していくとどんどん大好きになり、
こんなに素晴らしい終わり方に着地させた手腕は見事としか言いようがない。
ここまで書いてのタイトル部分で触れたディケイドの正体だが、
言ってしまえば東映が演じさせたい役割を演じさせ続けていく「役者」だ。
TV本編でのディケイドは何も分からずに「役割」を演じさせられていたが、
完結編を経た後では自分は「役者」だと理解した上で「役割」を演じているのである。
夏映画の正体は大ショッカー首領で妹が居る、というのもそういう「役割」だったと思うと腑に落ちる。
おなじみの「ここが○○の世界か…」だが、TV本編においては意味のないセリフだが、
完結編意向では「自身の役割をわかって演じている」というのが強く感じられる。
結局、ディケイドに正体なんてものはなく、「役割」を演じ続けている存在でしかない。
今後、正体が明かされても今回もそういう「役割」を演じているのだろう。
まとめると、「ディケイドに正体はない、ディケイドはディケイドであり、役割を演じ続ける者。」だ。
プロデューサーの人そこまで考えてないよ、というかもしれないが、
確かに東映は後付祭りで有名だし、ここまで考えてないかもしれないが、
ここまで深堀りして、こういう解釈が出来る懐の広い作品を作りあげた事が凄いし、
どうでもいい作品は考えようともしない、やはりディケイドと白倉Pは偉大だった。
え、鳴滝の正体?スピンオフで明らかになると良いね…
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